特別史跡
所在地
発掘調査
位置の特定
- 藤原京は平城京遷都後は水田になったので宮殿(藤原宮)の位置すら不明であった。
- 江戸時代から検討が進められてきたが、国学者の賀茂真淵は「大宮土壇」の地が藤原宮跡であるという説を唱えたが他の所説もあり、比定地が不明確なままであった。
- 昭和8年(1933)、大宮土壇の横で小学校の新校舎建設の際に、瓦や礎石と思われる石材、加工された凝灰岩が出土したのが切っ掛けに発掘調査が始まる。
次数 | 時期 | 内容 |
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日本古文化研究所 | 昭和9年(1934)~ 昭和18年(1943) |
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奈良県教育委員会 | 昭和41年(1966) ~昭和43年(1968) |
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岸説藤原京
- 昭和43年(1968)までの成果を受け継ぎ、奈良国立文化財研究所(現:奈良文化財研究所)が発掘調査を行うことになる。
次数 | 時期 | 内容 |
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1 | 昭和44年(1969) |
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2 | 昭和45年(1970) |
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3 | 昭和46年(1971) |
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4 | 昭和47年(1972) |
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5~7 | 昭和48年(1973) |
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8~9 | 昭和48年(1973) |
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10 | 昭和48年(1973) |
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11~16 | 昭和49年(1974) |
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17~18 | 昭和50年(1975) |
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20~21 | 昭和52年(1977) |
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22~26 | 昭和53年(1978) |
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大藤原京
- 「大藤原京」は遷都当初からのものであるか、途中から付け加えて拡大されたものかは詳細不明。
次数 | 時期 | 内容 |
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橿原考古学研究所 | 昭和54年(1979) |
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市教育委員会 | 平成8年(1996) |
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歴史
時期 | 内容 |
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天武4年(676) | 新しい都を建設する意図を示す記載が『日本書紀』にある。 |
持統元年(686) | 持統天皇が天武天皇の意思を継ぎ、新都造営計画を継続する。 |
持統8年(694) | 持統天皇が飛鳥浄御原宮から藤原京へ遷都。 |
慶雲3年(706) |
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和銅3年(710) | 都城としての不備を克服するために、元明天皇が平城京へ遷都する。 |
- 持統、文武、元明の三代16年間にわたり都として機能
- 文武末年には遷都が議せられ、元明天皇が即位すると直ちに平城遷都の詔勅を発し、2年後にはそれが実現し、藤原京は廃都となる
- 平城京遷都後は、左大臣石上麻呂が留守官となり、藤原宮に残る。
- 藤原宮は和銅4年(711)に大官大寺とともに焼亡した(『扶桑略記』より)と伝わるが、発掘調査では火災の痕跡は確認されていない。
概要
藤原京
- 藤原京は「新益京」とも呼ばれる。
- 中国の都城制(天子の居城、すなわち王城を中心に整えられた都市制度)に倣って建設された国内初の本格的な都城である。
- 一辺約1㎞四方の規模を持つ宮殿が京のほぼ中心に位置した他の都には見られない独特の配置をとる。
- 京内は碁盤目状の条坊道路によって整然と区画される。道路の規格は次のとおり
- 大路 :45大尺(約15.9m)
- 坊・条間路:25大尺(約8.9m)
- 小路 :20大尺(約7.1m)
- メインストリートの朱雀大路は幅約24mと藤原京内では最大規模であったが、平城京の3分の1の規模である。
- 道路の建設は大規模な造成工事となり、朱雀大路の建設では日高山古墳群(5~6世紀)や横穴墓などが破壊されたとされている。
- 朱雀大路南端の羅城門はなく、京城と郊外を画する城壁(羅城)も未確認。
- 平城京らのように何条何坊という数詞呼称はせず、左京小治町、林坊、軽坊という固有名で呼称されていた。
- 大宝元年(701)まで、京は左右に分かれていなかった。
⇒ 京内の土地は宅地として貴族・役人に分け与えられていた。 - 人口は2~3万人とも、4~5万人とも推定されている。
- 左京、右京に対置された大官大寺や本薬師寺などの官立寺院のほか、公設の市場が設けられていた。
藤原宮
- 規模は、東西約925m、南北約907m、面積約84ha
- 中心に大極殿院、その南に朝堂院、朝集殿院をおき、その北には天皇の住居である内裏が配置されている。
- 掘立柱の大垣によって外部と画された。
⇒ 大垣は7m以上の巨大な柱を約2.7m間隔で地面に立てた土壁・瓦葺
⇒ 高さ約5.5mの大垣の外側に外濠(幅5~6m)、内側に内濠(幅2.1m)。
⇒ 外濠と宮の周辺の条坊街路との間に外周帯という空閑地を有する:藤原宮固有 - 四面各辺に3つずつ合計12の宮城門が開き、南面中央には正門である朱雀門(大伴門)がある。
⇒ 他に、猪使門、海犬養門など門を守護する氏族にちなんだ門名が付けられた。 - 宮中枢部の建物群は、礎石建ち、丹(朱)塗り柱、瓦葺であり、国内最初の中国式宮殿建築として威容を誇った。
- 宮中枢部の東西には様々な役所が置かれたが、具体的な状況や役所名については未解明な部分が多い。
詳細
大極殿院
朝堂院
- 貴族や役人が儀式や政務に携わった場所。
- 東西約230m、南北約320mの規模:古代都城の中で最大広さ
- 院内には左右対称にそれぞれ6つ、計12の朝堂があり、役所ごとの座席が設けられた。
- 現在、大極殿院との境(朝堂院北面)に大極殿院閤門跡と東・西・南に門跡として、それぞれ想定地から南30m、北10m・北10m・北20mずらした場所に列柱の再現表示をしている。
- 閤門:部分的に確認、正面約30m、側面約15mと推定
- 東門:調査結果より八脚門(南北21.3m、東西14.5m)と推定
- 南門:栗石14箇所確認、桁行5間(24.6m)・梁間2間(10.2m)と推定
- 西門:発掘なし、東門と同規模と推定
保存・展示
奈良文化財研究所 藤原宮跡資料室
- 奈良文化財研究所都城発掘調査部(飛鳥・藤原地区)が実施している調査研究の成果を紹介する施設(玄関ホールに発掘成果を速報展示)。
- 展示室には、藤原京の造営過程、完成した都の様子、住民の暮らしぶりなどを遺物・模型・パネルを掲示。
- 遺物の形式分類や遺構・遺跡の年代と決定する上で基準となる土器と瓦の代表的な資料を展示。
橿原市 藤原京資料室
- 藤原京模型(1/1000)、出土品、解説パネルを展示。
- 映像コーナーでは、当時の藤原京の再現CGや藤原京を造営した天武・持統天皇の功績を描いたアニメーションなどを視聴することができる。
- 展望室があり、藤原宮跡朝堂院跡や天の香久山が一望できる。
年間行事
花見頃
関連リンク
案内
住所
- 橿原市醍醐町
交通
- 畝傍駅 ~ 徒歩30分
- 畝傍御陵前駅 ~ 徒歩30分
- 耳成駅 ~ 徒歩30分
見学
- 時間 自由
- 料金 無料