国指定史跡
所在地
発掘調査
- 昭和12年(1937)、土井実によって『大和志』に「太田遺跡」として紹介されたのが最初。
- 以下のもので要約された程度で発掘調査は実施されていなかった。
- 松本俊吉の『大三輪町史』(昭和34年(1959))
- 小島俊次の『奈良県の考古学』(昭和40年(1965))
- 昭和46年(1971)に調査が始まる。
- 昭和54年(1977)の第21次調査まで、調査の主体は県立橿原考古学研究所。主な調査成果は次のとおり。
- 纒向石塚古墳の範囲確認調査
- 遺跡の広がりを具体的に把握
- 辻地区における遺構(居館域の調査の契機となった特殊建物)の検出
- それ以降は、現在に至るまで、桜井市教育委員会が中心。
- 昭和から平成に時代が変わると、調査だけでなく、遺跡の保存やその価値を見極めることを目的とした学術調査が本格的に開始される。
第1期(第1~38次)
発見から歴史的位置づけ
次数 | 時期 | 内容 |
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1~6 | 昭和46年(1971) |
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7 | 昭和47年(1972) |
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20 | 昭和53年(1978) |
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36 | 昭和58年(1983) |
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第2期(第38~54次:昭和)
資料の蓄積と研究の模索
次数 | 時期 | 内容 |
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42 | 昭和60年(1985) |
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47 | 昭和61年(1986) |
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50 | 昭和62年(1987) |
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51 | 昭和62年(1987) |
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第2期(第55~145次:平成)
資料の蓄積と研究の模索
次数 | 時期 | 内容 |
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59 | 平成3年(1991) |
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61 | 平成3年(1991) |
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65 | 平成3年(1991) |
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80 | 平成6年(1994) |
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90 | 平成8年(1996) |
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109 | 平成10年(1998) |
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112 | 平成11年(1999) |
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121 | 平成12年(2000) |
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第3期(第146次以降)
保存・活用に向けて本格的な調査・研究
次数 | 時期 | 内容 |
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149 | 平成19年(2007) |
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162 | 平成21年(2009) |
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166 | 平成21年(2009) |
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168 | 平成22年(2010) |
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170 | 平成23年(2011) |
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173 | 平成23年(2011) |
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176 | 平成24年(2012) |
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180 | 平成25年(2013) |
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183 | 平成26年(2014) |
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纒向遺跡調査一覧表
1970年代1980年代1990年代2000年代2010年以降
歴史
時期 | 内容 |
---|---|
180年代後半 | 突如出現。 |
4世紀中頃 (350年半ば) |
布留1式の終末とともに突然消滅。 自然集落ではなく、人工的な集落(都市)であったと推定されている。理由は以下のとおり。
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古墳時代 前期後半以降中期まで |
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古墳時代 中期後半以降 |
石塚東古墳や勝山東古墳など中小の方墳、円墳などが急増 |
古代 |
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中世 |
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近世 |
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近代 |
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概要
- 弥生時代集落や同時代の集落遺跡とは一線を画するものである。
- 近年では、邪馬台国近畿説の有力候補地として注目される。
- 古墳時代の幕開けを告げる遺跡
- 「新たに編成された王権の政治的意図によって建設された日本最初の都市」あるいは「初期ヤマト王権最初の都宮」と位置付けられる。
構成
(1)王宮・居住区
箸中居住区
- 遺跡内の最南微高地に位置。
- 遺跡存続期間の後半期になって集落が展開する区域と推定。
太田居住区
- 遺跡内ほぼ中央に位置する太田微高地上に展開。
- 面積は最大。
- 太田地区から西域にかけて、庄内式期から布留式期にかけての遺構が密に検出されていることから中心的な居住域と推定。
太田北居住区
- 遺構の密度が高く、多くの重要遺構を確認している地区。
- 面積は最小。
- 第Ⅰ・Ⅱ期纒向遺跡初期の王宮区と推定。
- 王宮区西側に王宮に付属する祭祀エリアを想定。
巻野内居住区
- 東半地域から布留0式期以降の特殊な遺構が数多く発見されているが、庄内式期に遡る遺構が極めて希薄。
- 太田北微高地に推定されている王宮が布留式期になって移転した、纒向遺跡後半期の王宮区と推定。
草川居住区
- 遺跡内最北に位置。
- ほとんどが未調査。
- 西端で数回調査実績があるが、顕著な遺構は発見されず、より東方に中心部があると推定。
特徴
(1)大規模な集落
- 前段階の弥生時代の拠点的な集落をはるかに上回る極めて大きな規模を誇り、同時期の集落で同等の規模を持つものは皆無
(2)前期古墳の動向と次期が一致する集落
- 弥生時代には過疎地域であったところに3世紀初めに突如として大集落が形成され、遺跡の出現・繁栄や消長が周辺の前期古墳の動向と時期が一致している。
(3)発生期の前方後円墳群の存在
- 本来の近畿の墓の系譜にない墓制である前方後円墳や纒向型前方後円墳と呼ばれる共通の企画性を持った発生期の前方後円墳が存在。
- 後の古墳祭祀に続く主要な要素を既に完成されていたと考えられる。
(4)農業を営んでいない可能性
- 農具である鍬の出土量が極めて少ない。
- 土木工事用の鋤などは多く出土。
- 未だ水田・畑跡が確認されていない。
(5)吉備地域との直接的な関係
- 吉備地域をルーツとする弧帯文様を持つ特殊器台・弧文板・弧文石板などの出土あり。
- 弧帯文様を持つものは、吉備地方を中心に葬送儀礼に伴って発展
(6)広範囲な地域から運び込まれた土器
- 他地域から運び込まれた土器が出土土器全体の約15~30%を占める。
- その範囲は九州から関東に至る広範囲な地域
(7)交通の要所と「大市」の存在
- 各地域への交通の要所に位置。
- 搬入土器の存在と合わせて付近に市場の機能を有する「大市」の存在を推定。
(8)辻地区の特殊な大型建物群の存在
- 辻地区において、ほぼ真北の方位に則り明確な設計と規格性に基づいて構築され、柵をめぐらせた特殊な大型堀立柱建物群の存在を確認。
- この建物群の一つである建物Dは3世紀中頃までの建物遺構としては国内最大の床面積を有し、この時期の首長居館と推定。
(9)首長層の墓制
- 太田メクリ地区において、一般的な居住域から方形周溝墓・木棺墓・土器棺墓などとともに庄内式期の前方後方墳であるメクリ1号墳の存在が確認。
- 遺跡内での首長層の墓制や立地に明確な多様性や階層性が存在する。
(10)高床式や平地式の建物
- 最盛期には竪穴式住居ではなく、高床式や平地式の建物で居住域が構成されていた可能性がある。
(11)朝鮮半島や大陸系の遺物
- 韓式系土器の出土やバジル・ベニバナ花粉、漢式三角鏃を模倣したと考えられる木製鏃、木製輪鎧など朝鮮半島や大陸系の文物を数多く採り入れていたことが判明してる。
(12)高度な技術者集団
- 複数の地点にて、鍛冶工房や木製品加工所などの存在を確認。
- ベニバナを用いた染織が行われていた可能性がある。
遺構
辻地区の建物群
Sites of Residence in Tsuji Area
調査履歴
- 第20次調査の建物や柱列の遺構検出を手掛かりに、継続した調査を実施している。
- 平成20年(2008)の第162次から居館域の調査を本格化。
- 平成21年(2009)11月14・15日の第166次調査の現地説明会では、『女王・卑弥呼の王宮か』と大きな注目を受けた。
調査次数 | 調査目的 | 建物A | 建物B | 建物C | 建物D | 建物E | 建物F | 柱列 | 大型土抗 | 区画溝 | 石貼り溝 |
20 | 駐車場造成 | 〇 | |||||||||
21 | 資材置場造成 | ||||||||||
162 | 範囲確認 | 〇 | 〇 | ||||||||
166 | 範囲確認 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | |||||
168 | 範囲確認 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | ||||||
169 | 住宅建築 | ||||||||||
170 | 範囲確認 | 〇 | 〇 | ||||||||
173 | 範囲確認 | 〇 | |||||||||
175 | 住宅建築 | ||||||||||
176 | 範囲確認 | 〇 | 〇 | ||||||||
180 | 範囲確認 | 〇 | |||||||||
182 | 範囲確認 | ||||||||||
183 | 範囲確認 | 〇 |
復元イメージ
居館域の復元イメージ (引用:纒向デジタルミュージアム)
建物B
- 西・南・北の三方を柱列によって囲まれた2間(4.8m)×3間(5.2m)、床面積約2.5㎡の規模を持った建物遺構。
- 建物Bと柱列との間は1.5~1.7mと非常に狭いことから高床式の建物の可能性が考えられている。
- 出入りは東側から行われたものと推定。
建物C
- 南面要部東西両柱穴が後世の遺構の掘削によって失われているので正確な規模は不明。
- 南北の両妻部の中央からは建物に近接する形で棟持柱が検出されている。
- 復元では2間(5.3m)✕3間(約8m)、床面積約42㎡の規模。
建物D
- 西側は4世紀後半の溝によって削平され、検出規模は2間(6.2m)以上×4間(19.2m)。
- 本来は東西も4間の規模と推定され、南北長さ19.2m×東西長さ12.4m、床面積約238㎡の規模で復元される。
- 当時としては国内最大規模の建物遺構。
柱列
- 建物B~Dの建物群を取り囲む柵や塀のような構造と推定。
- 途中、南北溝などの後世の遺構に大きく削平を受けている。
区画溝
- 東辺にあたる南北溝部分と南辺にあたる東西溝部分、西辺にあたる南北溝部分で構成される。
- 東辺は幅約8m、深さ約1m、長さ54m以上の規模。
- 南・西辺は上部が後世の遺構により削平されていて、詳細は不明であるが、東辺に近い規模であったと推測される。
- 多くの土器のほか、板材、柱材、梯子などの加工木が出土(布留2式期)。
北飛塚地区の住居跡
Sites of dwelling in Kitatobizuka Area
- 南溝は箸墓古墳付近の巻向川から、北溝は旧穴師川からきて現在の纒向小学校のグランドの中で合流していることが確認できた。
- 幅約5m、深さ約1.2mの大溝、確認されている長さは北溝約60m、南溝約140m。
- 庄内0式期に掘削され、布留1式期(4世紀初め)に埋没している。
- 南溝には護岸用の矢板が打ち込まれている。
- 両溝の合流点には水量の調整が可能な井堰が設置されていた。
- 灌漑用であるとともに、物資運搬用の水路と推定。
辻地区の祭祀土坑群
Group of rituals earthen pit in Tsuji Area
- 辻河道(埋没河川)の南岸から検出された21基の祭祀土坑
- 内部から多くの土器や木製品が出土
- 最も遺物が豊富だったのが辻土坑4(第7次調査)
⇒ 出土祭具は『延喜式』新嘗祭の条の器材と共通点
尾崎花地区の区画溝
Partitioning groove in Ozakihana Area
- 布留0式期~2式期(3世紀後半~4世紀中頃)の遺構
- 幅、深さともに約2m規模
- 溝の外側には土塁のような盛土遺構がある
⇒ 上面の塀(or垣)となる柱穴が約1.6m間隔で検出
⇒ 居館など役割を持った施設と一般集落を区画 - 尾崎花地区からは鍛冶関連や木製品加工関連の遺構が出土
⇒ 区画の内側には工房などの存在を想定
遺物
尾崎花地区の巾着状絹製品
Drawstring purse made in silk fabric
- 幅約4.8m、深さ約1.7mの溝から出土。
- 布留0式期新相(3世紀後半)から布留1式期古相(4世紀初め)のものと考えられる。
- 天蚕によって作られた平織り絹布で何かを包んだ後、捻りの浅い植物質の紐(麻類)で口を結ぶ。
- 高さ約3.4cm、厚み約2.4cm。
- 巾着は漆によって固められ、中に空洞があることは解ったが、内容物は不明。
保存・展示
- 発掘調査は継続的に実施され、187次を超えている(平成28年3月時点)が、遺跡全体の面積の2%にも届いていない。
⇒ さらなる調査の推進と詳細な内容構造の解明はこれからの課題として残っている。 - 国の史跡指定を受けているのが纒向遺跡としては辻地区と太田地区、纒向古墳群は纒向石塚古墳とホケノ山古墳のみ。
⇒ 遺跡の特徴を考慮すると他のエリアも史跡指定を受けることができるように活動を進める。 - しかし、史跡指定を受けているエリアですら遺跡見学の拠点となる公園広場や施設、散歩道、説明板や案内板といったサインの設置といった周辺環境の整備は進んでいない。
⇒ 交流館(太田エリアで計画)をセンターエリアに据え、周辺の古墳や史跡をサテライトとして諸施設を配置。
⇒ 史跡活用する計画を桜井市が公表(平成28年3月31日付)している。
⇒ センターエリアに位置する交流館(ガイダンス施設)のオープンは平成31年度末を想定した計画となっている。
関連リンク
案内
住所
- 桜井市箸中ほか
交通
- 巻向駅 ~ 徒歩15分
見学
- 時間 自由
- 料金 無料