特別史跡
所在地
発掘調査
- 奈良国立文化財研究所が調査を担当。
- 昭和51年(1976)4月から調査開始、平成8年(1996)12月まで計11次、約10,500㎡を調査。
- 塔と金堂、それらを囲む回廊、寺域を限る大垣や南門、宝蔵などの位置と規模および構造を解明した。
- 多量に出土した遺物の分析を通して、舒明13年(641)から天武朝までの造営過程やその後の変転の様相も明らかになった。
概要
- 第1~3次調査:塔および中門や西面回廊、金堂、北面回廊、講堂を発掘し、当時国有地となっていた伽藍の中心部分の調査がほぼ完了。
- 第4次調査:初めて民有地を借用して調査し、崩壊状態で埋没した回廊建物を発見。
- 第5~6次調査:埋もれた回廊の建築部材の発掘区の南北側の隣接地を引続き調査。
- 発掘現場から取り上げた建築部材の整理作業とその科学的保存処理の作業が急務であったため、調査は一時中断。
- 第7~8次調査:調査再開、南門と寺域南方、寺域西限、回廊東北隅を確認。
- 第9~11次調査:整備工事において、実施設計の細部データを補完するために、寺域東南隅、南面回廊、寺域南辺を調査。
伽藍中心部の確認
次数 | 時期 | 内容 |
---|---|---|
1 | 昭和51年(1976) |
|
2 | 昭和53年(1978) |
|
3 | 昭和54年(1979) |
|
東面回廊の発見
次数 | 時期 | 内容 |
---|---|---|
4 | 昭和57年(1982) |
|
5 | 昭和58年(1983) |
|
6 | 昭和59年(1984) |
|
調査再開
次数 | 時期 | 内容 |
---|---|---|
7 | 平成元年(1989) |
|
8 | 平成2年(1990) |
|
整備工事に向けて
次数 | 時期 | 内容 |
---|---|---|
9 | 平成6年(1994) |
|
10 | 平成8年(1996) |
|
11 | 平成8年(1996) |
|
歴史
時期 | 内容 |
---|---|
欽明13年(641) | 蘇我入鹿の従兄弟の蘇我倉山田石川麻呂が造営に着手した。 |
皇極2年(643) | 金堂が完成し、やや遅れて回廊が造営される。 |
大化5年(649) | 石川麻呂が反逆の罪を着せられ自殺し、造営は一時頓挫することになる。 |
天武5年(676) | 塔が完成、次いで講堂などが建設される。 |
天武14年(685) | 丈六仏像の開眼供養 ⇒ 40年におよぶ造営工事が完了 |
8世紀 | 石川氏の氏寺に戻ったと推測されている。 |
治安3年(1023) | 藤原道真が参詣。 |
11世紀前半 | 大垣・回廊・宝蔵が倒壊 |
文治3年(1187) | 興福寺衆徒の乱入により塔・金堂・講堂が焼失、仏像の頭部のみ持ち去られる。 ⇒ 現在、頭部のみ興福寺に所蔵されている。 |
鎌倉時代前半 | 旧講堂を中心に再興 |
弘安2年(1279) | 多武峰との相論 |
『上宮聖徳法王帝説』裏書
舒明13年(641)「浄土寺建立の地を定め、整地する」から天武14年(685)「丈六仏開眼」までが記載されている。山田寺の創建について知ることができる貴重な文献。
釈文
有本云誓願造寺恭敬三宝十三年辛丑春三月十五日始浄土寺云々
注云辛丑年始平地癸卯年立金堂之代申始僧住己酉年三月廿五日大臣遇害癸亥構塔癸酉年
十二月十六日建塔心柱其柱礎中作円穴刻浄土寺其中置有蓋大鋺一口内晟種々殊玉其中
有塗金壺々内亦晟種々殊玉其中有銀壺々中内有鈍金壺其内有青玉玉瓶
其内納舎利八粒丙子年四月八日上露盤戊寅年十二月四日鋳丈六仏像乙酉年三月廿五
□ 點仏眼山田寺是也 注承暦二年戊午南一房写之真曜之本云々
概要
遺構変遷
期数 | 時期 | 内容 |
---|---|---|
Ⅰ | 造営以前 |
|
Ⅱ | 創建期 皇極・孝徳朝 (7世紀中頃) |
|
Ⅲ | 伽藍完成前後 天武期 (7世紀後半~8世紀中頃) |
|
Ⅳ | 8世紀中頃~9世紀後半 |
|
Ⅴ | 10世紀前半~11世紀初頭頃 |
|
Ⅵ | 焼亡期 11世紀前半~12世紀末 |
|
Ⅶ | 再興期 鎌倉時代 |
|
出土瓦から室町時代にも存続し、江戸時代に再建された現存する山田寺に法灯が引き継がれたと推定される。
現在風景
重要文化財
古文書・考古資料・歴史資料
名称 | 適用 | 詳細 |
奈良県山田寺跡出土品 | 員数:一括 | 詳細ページ |
詳細
金堂跡
Ruin of Main Hall
- 壇正積による基壇(基礎)の上に建ち、基壇上面に礎石が2個、原位置を保ち残る。
壇正積基壇の模式図 (引用:遺跡に学ぶ085『奇偉荘厳の白鳳寺院』)
- 基壇の築成法は以下のとおり。
- 基壇の周囲3.5~3.8m外から深さ1.8m掘り込み、東西25m・南北23mのプール状の掘込みをつくる
- この底部から粘土や砂などを層状に突き固める(「版築」という)
- 版築の積み上げが旧地表を越えて高さが地上1.4mに達した地点で浅い礎石の据付穴を掘る
- 据付穴に直接、礎石を据え、さらに基壇高さが1.8mまで版築を施す
⇒ ここが基壇上の歩行面で厚さ12cmの凝灰岩製の切石で舗装
⇒ この石を「敷石」という
- 基壇の土の高まりを保護するために四周を石や瓦を積み上げて固定する基壇外装(基壇化粧)は壇正積であり、最も格式高い形式。
- 基壇地覆石の四周1.6m幅には石敷気による犬走りを設ける。
- 桁行3間・梁間2間の身舎の四周に庇をめぐらす。
⇒ ただし、庇も身舎と同じ柱配置となっている。 - 身舎の柱間寸法は、桁行の中央間4.84m・両脇間1.97m、梁間は2.87m
- 庇は全体の長さが、桁行14.5m・梁間11.5m
- 身舎が桁行3間・梁間2間で四周に庇を設ける場合、建物全体では桁行5間・梁間4間となるのが一般的であるが、身舎の桁行両脇間を狭くして、身舎の柱筋の延長上に庇の柱を建てないという特異な構造。
- 西面の階段の北側面には階段の羽目石が残存し、獅子の前脚と見られる彫刻が施されているが、現存する寺院あるいは寺院遺跡で他に類例はなく、石材加工技術の高さを示す。
- 壁画のある壁土片が出土したことから金堂内部には壁画が描かれていた可能性がある。
回廊跡
Ruin of Cloister
- 東面回廊と南面回廊および北面回廊の東辺部は廃絶時の基壇がそのまま残っていた。
- 西面回廊や南面回廊、北面回廊西半部は基壇が削られ、礎石の据付け穴や抜取り穴も覆うが削平されていた。
位置 | 状況 |
---|---|
東面 |
|
西面 |
|
南面 |
|
北面 |
|
(1)柱と連子窓
- 単廊形式
- 円柱はエンタシス(胴張り)をもち、下端の径が35cm、上端の径が33cmで、下から約70cmの腰長押付近で最も太く38cm程度。
- 伽藍内側の柱筋は壁などが入らず列柱が続き、この柱筋には頭貫と桁の間にも壁を入れるための下地材である間渡穴などの痕跡がない。
- 伽藍外側の柱筋は柱間下部の地覆石上に地覆を置き、地覆上に腰壁束を2本立てて柱間の腰壁を3区に分け、この上部では柱をはさむように前後から腰長押を釘うちして柱同士をつないでいる。
- 腰長押の上は、柱頂部をつなぐ頭貫との間に連子窓を組むが、柱に接する部分には小脇壁を入れている。
⇒ 柱間の両端部に断面角形の辺付をこれに接して縦窓枠を立て、また縦窓枠と組んで、腰長押上に下窓枠、頭貫下に上窓枠を入れ、この上下の窓枠間に方形で角を前後に向けた連子子を20本並べる。
(2)柱より上の構造
- 柱の上には大斗を置き、その上に内外の柱筋を結ぶ虹梁を架けわたし、肘木をかませて巻斗3個をのせる。
- さらにこの上に角断面の桁をのせ、屋根の斜面を構成する丸断面の垂木を棟から架け降ろす構造となっている。
- 虹梁の中央には人字形の叉首を組んで巻斗を置き、その上に三斗をのせ、角断面の棟木を支持して垂木の頂部を受けている。
- 垂木の上に、野地板を垂木と直交する方向に張って垂木の間をふさぐ。
- 軒先には断面が三角形の茅負を置いて垂木を釘止めし、平瓦の下面の形状に操って波形としている。
塔跡
Ruin of Tower
- 土壇が残るものの、上面は削平され、地下式心礎と西北隅の四天柱の礎石のみが残存する。
- 6個の礎石据付穴を確認。
- 基壇は金堂の最終整地を切り込んでいて、深さ約80cmの掘込地業(南北約14.5m・東西約15.7m)を施し、底部から版築をおこなっている。
- 基壇の外には二層程度の整地土があるが、足場の穴が掘込地業を壊し、これらの整地土の下で見つかっている。
⇒ 足場は塔建立時のもので、整地は塔の建物完工後のものである。 - 基壇の周囲には、金堂同様の犬走りの敷石(幅1.47m)が施されているが、金堂と異なって階段部分は突出せず石質も砂岩系の石である点が異なる。
- 心礎は南北1.72m・東西1.80m、厚さ0.84mの花崗岩、上面を平滑に加工し、中央に円形の舎利孔が穿たれている。
宝蔵跡
Ruin of Treasure House
- 東面回廊の東北隅の東方に桁行3間・梁間3間の礎石建ちの総柱建物。
- 柱間寸法は南北(桁行)2.00m、東西(梁間)1.66mで南北棟の建物と推定。
- 総柱式(碁盤目状の方眼の交点すべてに柱を建てる)の平面を持つ建物は倉の建築に用いられる。
⇒ 現存するものでは、正倉院正倉や唐招提寺の宝蔵・経蔵 - 周囲から銅板五尊像、仏具、経軸、経典の出納にかかわる木簡が出土
⇒ 宝蔵の遺構と推定 - 礎石は上面を平らにした自然石で、回廊の礎石のような柱座の造り出しをしていない。
- 礎石の柱の当たり痕跡から、柱径は34~39cmと判明。
- 遺構は基壇上から出土した土器から9世紀中頃のものと推定。
- 創建の基壇は掘込地業をおこなわず、改修にあたっては創建の基壇土をほぼ除去して、新たに積み直す。
- 基壇外装は確認できず、建物部分を15cmほど高める程度の低い基壇。
- 礎石の1mほど外に雨落溝が設けられる。
保存・展示
関連リンク
案内
住所
- 桜井市山田1258
交通
- 近鉄/JR・桜井駅~バス(石舞台行)「山田寺前」下車徒歩3分
見学
- 時間 自由
- 料金 無料