世界文化遺産(古都奈良の文化財)
[平成10年(1998)登録]
特別史跡
所在地
発掘調査
明治時代以降
時期 | 内容 | |
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明治40年(1907) | 大極殿の基壇を見つけ、平城宮の復元研究を深めた関野貞が「平城宮及大内裏考」を発表。 | |
大正13年(1924) | 棚田嘉十郎が奈良大極殿保存会を設立し、発掘調査を始める。 | |
昭和34年(1959) | 奈良国立文化財研究所が発掘調査を継続。 | |
昭和37年(1962) | 大膳職があったと推定される区画から木簡出土1号を含む平城宮跡大膳職推定地出土木簡39点が見つかる。 以降、平城宮跡内裏北外郭官衙出土木簡1,785点など続々と発見される。
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昭和39年(1964) | 東側に張り出し部に奈良時代の庭園を発見する。 | |
昭和63年(1988) | 平城京左京三条二坊の長屋王邸宅跡地から長屋王邸に運ばれた食料などの内容を記した荷札、邸で働く人々への給食を管理する帳簿などの木簡約4万点が発見された。 |
歴史
時期 | 内容 |
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慶雲4年(707) | 文武天皇が藤原京からの遷都を貴族に諮る。 |
和銅元年(708) | 元明天皇が貴族の意見によって、平城遷都の詔を発する。 ⇒ 造宮省や造平城京司を設置、急速に造営を進める |
和銅3年(710) | 建設途中の段階で、平城遷都を敢行する。 |
天平12年(740) | 聖武天皇は平城宮を離れて、恭仁宮に遷都する。 |
天平14年(742) | 紫香楽宮を造る。 |
天平16年(744) | 難波宮に遷都する。 |
天平17年(745) | 紫香楽宮に遷都し、その後再度、平城遷都 |
延暦3年(784) | 桓武天皇が長岡京に遷都 |
弘仁元年(810) | 平城上皇が平城復都を企てるも失敗(薬子の変)、宮跡は田畑と化した。 |
貞観6年(864) | 平城旧京の道路は川畑となる。 |
概要
平城京
- 遷都当初の造成土から「奈良京」と書かれた木簡が出土している。
- 北に山、東に川、南に池、西に大道を備えた平城の地は「四禽図(しきんず)」に叶い、都造営の適地にある。
- 唐の長安をモデルに都市計画される。
- 東西軸には一条から九条大路、南北軸には朱雀大路と左京一坊から四坊、右京一坊から四坊の大通りが設置された条坊制が採用された。
- 京域の広さは、東西約6㎞、南北5㎞。
- 人口は推定約10万人。
- 都の北側には皇居や政府の役所などが集まる大内裏があり、そこから南に広がるように貴族や役人の住まい、大寺院、庶民の住む茅葺の家、田畑があった。
- 右京と左京のそれぞれに役所と警察を兼ねた「京職」が置かれ、官営の市場である東市・西市も開かれた。
- 外京は平城京の大きな特徴である。
⇒ 本来の都市計画とは無関係な藤原氏の占有地域。
⇒ 遷都を見越した藤原不比等が左京の東高台に氏寺(興福寺)とさらに東に氏神(春日大社)を建てた。 - 京域には、寺院建築が多い。
- 藤原京から遷都に際して移転されたのが大安寺、薬師寺、興福寺、元興寺(『四大寺』と称す)。
- 右京の北方に西大寺
- 東京極大路に接した京域の東外に東大寺
⇒ 1~3に法隆寺を加えて、『南都七大寺』と称する。 - 他に、海龍王寺、法華寺、唐招提寺、菅原寺(喜光寺)、新薬師寺、紀寺(子院が残る)、西隆寺(廃寺)などがあった。
- 平城京の入口である羅生門から平城宮の正門である朱雀門までの間を朱雀大路で結び、道幅は約75mであった。
平城宮
- 規模は、東西約1250m、南北約950mの正方形の東側に東西約250m、南北約750m分だけ張出した形で、面積約130ha
- 現在の皇居と霞が関を合わせたようなところであった。
- 天皇の住居である内裏、政治の中心施設である大極殿、朝堂院があり、周囲に二官八省一台の役所が立ち並んだ。
- 大極殿と朝堂院は2箇所ずつあり、聖武天皇が恭仁京や難波京を転々とし、再び平城京へ戻った時期に移動したと考えられている。
⇒ はじめの方は「第一次」、あとの方は「第二次」と呼び分けている。 - 周囲には大垣がめぐり、朱雀門をはじめ12の門があった。
- 第一次大極殿の北方には大膳職(宮内省管下、全国から調として納められた食料品を保管し、儀式や宴会の食事を担当)の遺構が植栽によって表示されている。
重要文化財
古文書・考古資料・歴史資料
名称 | 適用 | 詳細 |
平城宮跡造酒司出土木簡 | ||
平城宮跡大膳職推定地出土木簡 | ||
平城宮跡内膳司推定地出土木簡 | ||
平城宮跡内裏北外郭官衙出土木簡 |
詳細
大極殿
- 天皇が国家儀式を執り行う場所。
- 造営当初からの第一大極殿院は、東西約180m、南北約320mの区画で、北側を一段高くして大極殿と後殿を南北に配置。
- 平成22年(2010)に、第一次大極殿を復原。
⇒ 藤原宮大極殿と同規模(正面幅44m×高さ25m)であることからその移築と考えられる。 - 天平12年(740)に恭仁京遷都で再び移築される。
- 天平17年(745)の遷都後に第二次大極殿が造営される。 ⇒ 基壇を復原。
- 第二次大極殿の下層から、平城宮建設に際して、削平された前方後円墳(神明野古墳・全長117m)が発見される。
朱雀門
- 平城宮の正門。
- 上部構造を伝える資料は全くない。
- 朱雀門前の広場では新羅や唐といった外国使節の送迎が行われたり、大勢の人が集まって歌垣などのイベントが行われた。
- 昭和39年(1964)の発掘調査で初めて確認され、平成元年(1989)には復原整備を控えて全面の再発掘が行われた。
- 柱中心間隔が17尺(約5m)、正面5間(約25m)、奥行2間(約10m)の規模
- 基壇は掘込地業という技法で丁寧に固められ、自然石の礎石であった。
- 出土した屋根瓦から藤原宮の瓦が再利用されたとされている。
- 平城宮を囲んでいた高さ約5mの築地大垣の一部とともに復原されている。
- 発掘調査で判明した平面プランと、『伴大納言絵巻』に描かれた平安宮朱雀門、現存の法隆寺中門、薬師寺東塔、東大寺転害門などを参考に、平面幅約25m、高さ20mの二重門に復原された。
内裏
- 建物は檜皮葺の掘立柱建築で天皇の代替りごとに改築された。
- 遺構は植栽で表示、東端には井戸を復原している。
- 内裏東隣の復原建物は、宮内省(天皇家の財政や庶務を担当)と推定されている。
朝堂院
- 貴族や役人が儀式や政務に携わった場所。
- 当初から中央(第一次大極殿の南方)、東(第二次大極殿の南方)の2つの朝堂院が並立していた。
- 中央が4堂で、最初から瓦葺・礎石建物。
- 東は12堂で、最初は掘立柱建物だったものを、天平17年(745)の遷都後に瓦葺・礎石建物に改築。
- 中央広場(朝庭)から5回分の大嘗宮(天皇の即位後、初めて神の米の収穫を感謝する大嘗祭を行う仮設の宮殿)跡が発見されている。
- 東の朝堂院の南には、毎朝役人が集まる朝集殿院があり、その東朝集殿は唐招提寺講堂として移築された。
⇒ 唯一現存する平城宮建築物
保存・展示
- 発掘調査は継続的に実施されている。
- 遺構を埋め戻して保存し、その上部に型どりした遺構模型を展示する方法や盛土と植栽で建物の規模と位置を示す方法、建物の基壇や壁の一部まで復原する方法などを用いて、発掘の成果をわかりやすく見せている。
- 朱雀門や東院庭園、大極殿を復原し、当時の姿が再現されている。
- 奈良文化財研究所の平城宮跡資料館に、宮跡の発掘調査の成果や当時の天皇や貴族に関する展示を観覧することができる。
年間行事
イベント
- 2010年に「平城遷都祭2010」を春(4/24~5/9)と夏(8/20~8/27)に実施してことをきっかけに、毎年、春・夏・秋の時期に、数日間ずつ開催される。
- 古代行事の再現や花絵巻、様々なオブジェの展示などによって、約1,300年前の歴史に触れることができるイベントである。
季節 | 春 | 夏 | 秋 |
2010 | ※ | ※ | |
2011 | ※ | ※ | |
2012 | ※ | ※ | ※ |
2013 | ※ | ||
2014 | ※ | ※ | |
2015 | ※ | ||
2016 | ※ | ※ | |
2017 | ※ | ※ |
関連リンク
案内
住所
- 奈良市佐紀町、法華寺町、二条大路南2・3・4丁目
交通
- 大和西大寺駅 ~ 徒歩10分
- 近鉄奈良駅 ~ バス「西大寺駅行き」 平城宮跡・佐紀町・二条町すぐ
- 近鉄奈良駅 ~ バス「学研北生駒駅行き・赤膚山行き」二条大路南4丁目 ~徒歩1分
見学
- 時間 自由
- 料金 無料