藤原宮跡

飛鳥時代の都城、日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城でもある。『日本書紀』には新益京と著される。

特別史跡

 所在地

  • 国内初の本格的な都城である藤原京跡は、現在の橿原市・桜井市・明日香村にまたがって所在する(ただし、宮跡は橿原市)。
  • 藤原京の京域は、西の下ツ道、東の中ツ道、北の横大路、南の阿倍山田道の4つの大路で囲まれる領域(東西約2.1㎞、南北約3.1㎞)と考えられてきた。[岸説]
    ⇒ 発掘調査の結果、京域は従来考えられていたものの約4倍[大藤原京論]
    (南北について未確定な部分があるが、約5.3㎞四方)
    ⇒ 大和三山がすっぽりと入る巨大な宮都であった。
  • 大藤原京論:外京説、縮小説、拡大説、復原説
藤原京条坊図
藤原京条坊図
  • 藤原宮跡は、東に天香久山、西に畝傍山、北に耳成山の大和三山に囲まれている。
藤原宮跡 位置図
藤原宮跡 位置図

 発掘調査

位置の特定
  • 藤原京は平城京遷都後は水田になったので宮殿(藤原宮)の位置すら不明であった。
  • 江戸時代から検討が進められてきたが、国学者の賀茂真淵は「大宮土壇」の地が藤原宮跡であるという説を唱えたが他の所説もあり、比定地が不明確なままであった。
  • 昭和8年(1933)、大宮土壇の横で小学校の新校舎建設の際に、瓦や礎石と思われる石材、加工された凝灰岩が出土したのが切っ掛けに発掘調査が始まる。
次数 時期 内容
日本古文化研究所 昭和9年(1934)~
昭和18年(1943)
  • 黒坂勝美らが大宮土壇一帯を調査
  • 大極殿、朝堂院の建物群を発見
奈良県教育委員会 昭和41年(1966)
~昭和43年(1968)
  • 国道バイパス計画に伴う範囲確認調査
  • 北面大垣とその東隅および西面大垣の位置が判明し、宮の範囲や構造が明確になる
岸説藤原京
  • 昭和43年(1968)までの成果を受け継ぎ、奈良国立文化財研究所(現:奈良文化財研究所)が発掘調査を行うことになる。
次数 時期 内容
第1次調査 昭和44年(1969)
  • 宮域南辺の確認、朝堂院南門と推定される遺構の再確認
第2次調査 昭和45年(1970)
  • 大極殿跡である大宮土壇の東南地域の調査
  • 東北隅を検出した内裏外郭と推定される回廊の南延長部と朝堂院回廊との関係の分析
第3次調査 昭和46年(1971)
  • 遺構の下に弥生時代の厚い包含層を認める
第4次調査 昭和47年(1972)
  • 藤原宮期の溝や柵、礫敷などや弥生時代の溝、古墳時代の溝、掘立柱建物、瓦器を伴う多数の小溝を検出
第5~7次調査 昭和48年(1973)
  • 鴨公小学校建設予定地の調査
  • 予定地ほぼ全域に占める官庁ブロックの存在が明らかになる
第8~9次調査 昭和48年(1973)
  • 第5~7次に引続く調査
  • 鴨公小学校建設予定地の調査を終了
第10次調査 昭和48年(1973)
  • 橿原市四分団地造成に伴う調査
  • 宮域の西限の塀、溝等を確認
第11~16次調査 昭和49年(1974)
  • 内裏外郭の西限の塀・溝を確認
  • 宮の東南隅付近に建物・柵を検出
  • 内裏西外郭に道路遺構を検出
第17~18次調査 昭和50年(1975)
  • 北面中門を確認
  • 右京七条一坊付近で日高山瓦窯の遺構を調査
第20~21次調査 昭和52年(1977)
  • 大極殿北方の調査
  • 西殿の調査
第22~26次調査 昭和53年(1978)
  • 東面大垣と伴う内濠・外濠の確認
大藤原京
  • 「大藤原京」は遷都当初からのものであるか、途中から付け加えて拡大されたものかは詳細不明。
次数 時期 内容
橿原考古学研究所 昭和54年(1979)
  • 京域外とみなされてきた橿原市葛本町の下明寺遺跡や橿原市八木町の院ノ上遺跡から藤原京と同時期の道路遺構を発見
    ⇒ 岸説藤原京域を超える範囲の「大藤原京」域の復元案が様々に提出される
市教育委員会 平成8年(1996)
  • 橿原市教育委員会による土橋遺跡と桜井市教育委員会による上之庄遺跡の調査によって、西京極と東京極にあたるT字形の条坊道路を確認
    ⇒ 「大藤原京」の東西規模が確定
現在
  • 主に奈良文化財研究所が発掘調査を現在も継続実施
  • 藤原京の調査に関しては、奈良文化財研究所に加えて、橿原考古学研究所、橿原市教育委員会でも実施

藤原宮跡 発掘調査現地説明会資料表紙(第190次)
発掘調査(第190次:2017年)現地説明会資料の表紙

 歴史

時期 内容
天武4年(676) 新しい都を建設する意図を示す記載が『日本書紀』にある。
持統元年(686) 持統天皇が天武天皇の意思を継ぎ、新都造営計画を継続する。
持統8年(694) 持統天皇が飛鳥浄御原宮から藤原京へ遷都。
慶雲3年(706)
  1. 宮域が高地に立地しなかったため、都の内外に排水処理上の問題が発生
  2. 朱雀大路が丘陵地にかかり都城を荘厳する空間になっていない
和銅3年(710) 都城としての不備を克服するために、元明天皇が平城京へ遷都する。
  • 持統、文武、元明の三代16年間にわたり都として機能
  • 文武末年には遷都が議せられ、元明天皇が即位すると直ちに平城遷都の詔勅を発し、2年後にはそれが実現し、藤原京は廃都となる
  • 平城京遷都後は、左大臣石上麻呂が留守官となり、藤原宮に残る。
  • 藤原宮は和銅4年(711)に大官大寺とともに焼亡した(『扶桑略記』より)と伝わるが、発掘調査では火災の痕跡は確認されていない。

 概要

藤原京
  • 藤原京は「新益京」とも呼ばれる。
  • 中国の都城制(天子の居城、すなわち王城を中心に整えられた都市制度)に倣って建設された国内初の本格的な都城である。
  • 一辺約1㎞四方の規模を持つ宮殿が京のほぼ中心に位置した他の都には見られない独特の配置をとる。
  • 京内は碁盤目状の条坊道路によって整然と区画される。道路の規格は次のとおり
    • 大路   :45大尺(約15.9m)
    • 坊・条間路:25大尺(約8.9m)
    • 小路   :20大尺(約7.1m)
  • メインストリートの朱雀大路は幅約24mと藤原京内では最大規模であったが、平城京の3分の1の規模である。
  • 道路の建設は大規模な造成工事となり、朱雀大路の建設では日高山古墳群(5~6世紀)や横穴墓などが破壊されたとされている。
  • 朱雀大路南端の羅城門はなく、京城と郊外を画する城壁(羅城)も未確認。
  • 平城京らのように何条何坊という数詞呼称はせず、左京小治町、林坊、軽坊という固有名で呼称されていた。
  • 大宝元年(701)まで、京は左右に分かれていなかった。
    ⇒ 京内の土地は宅地として貴族・役人に分け与えられていた。
  • 人口は2~3万人とも、4~5万人とも推定されている。
  • 左京、右京に対置された大官大寺や本薬師寺などの官立寺院のほか、公設の市場が設けられていた。
藤原京(橿原市藤原京跡)
藤原京(橿原市藤原京資料室の模型:北面から)
藤原宮
  • 規模は、東西約925m、南北約907m、面積約84ha
  • 中心に大極殿院、その南に朝堂院、朝集殿院をおき、その北には天皇の住居である内裏が配置されている。
  • 掘立柱の大垣によって外部と画された。
    ⇒ 大垣は7m以上の巨大な柱を約2.7m間隔で地面に立てた土壁・瓦葺
    ⇒ 高さ約5.5mの大垣の外側に外濠(幅5~6m)、内側に内濠(幅2.1m)。
    ⇒ 外濠と宮の周辺の条坊街路との間に外周帯という空閑地を有する:藤原宮固有
  • 四面各辺に3つずつ合計12の宮城門が開き、南面中央には正門である朱雀門(大伴門)がある。
    ⇒ 他に、猪使門、海犬養門など門を守護する氏族にちなんだ門名が付けられた。
  • 宮中枢部の建物群は、礎石建ち、丹(朱)塗り柱、瓦葺であり、国内最初の中国式宮殿建築として威容を誇った。
  • 宮中枢部の東西には様々な役所が置かれたが、具体的な状況や役所名については未解明な部分が多い。
藤原宮(橿原市藤原京資料室の模型)
藤原宮(橿原市藤原京資料室の模型)

 詳細

大極殿院
藤原宮跡 大極殿院(復元イメージ)
大極殿院 復元イメージ(橿原市藤原京資料室)
藤原宮跡 大極殿院(復元)平面図
大極殿院 復元平面図(奈良文化財研究所 藤原宮跡資料室)
藤原宮跡 大極殿院跡
大極殿院跡 (2012/08/26撮影)
  • 天皇が国家儀式を執り行う場所。
  • 東西約115m、南北約155mの規模で回廊がめぐる。
  • 中央に宮内最大級の大極殿(9間✕4間:約45m×約20m、高さ約25m)
    ⇒ 当時国内最大の建物で、瓦葺の宮殿としては最初のもの
    ⇒ 必要な瓦は、藤原宮のすぐ南の日高山や橿原神宮近くの久米や現在の大和郡山市や生駒群平群町で焼かれた。
朝堂院
藤原宮跡 朝堂院南門跡
朝堂院南門跡 (2012/08/26撮影)
  • 貴族や役人が儀式や政務に携わった場所。
  • 東西約230m、南北約320mの規模:古代都城の中で最大広さ
  • 院内には左右対称にそれぞれ6つ、計12の朝堂があり、役所ごとの座席が設けられた。
  • 現在、大極殿院との境(朝堂院北面)に大極殿院閤門跡と東・西・南に門跡として、それぞれ想定地から南30m、北10m・北10m・北20mずらした場所に列柱の再現表示をしている。
    • 閤門:部分的に確認、正面約30m、側面約15mと推定
    • 東門:調査結果より八脚門(南北21.3m、東西14.5m)と推定
    • 南門:栗石14箇所確認、桁行5間(24.6m)・梁間2間(10.2m)と推定
    • 西門:発掘なし、東門と同規模と推定
藤原宮跡 朝堂院の各門跡 位置図
朝堂院 各門跡
朱雀大路跡
藤原京朱雀大路跡
藤原京朱雀大路跡 (2018/04/07撮影)
  • 宮の南面中門である朱雀門から真直ぐ南に延び京の正門である羅城門に至る中央街路。
  • 東西両側溝の心心距離は約24mであり、平城京(約74m)に比べて道路幅が狭い。
  • 西側溝は玉石を三段以上積む護岸を有する。
  • 東側溝は素掘りの溝であったが、側溝が日高山の北裾で終わっていることから明確でない点が多い。
  • 飛鳥川以南が不明であることから、飛鳥川以北の宮の正面に限り造営されたとも考えられている。
藤原宮跡 朱雀大路跡調査周辺図
朱雀大路跡 調査周辺図

 保存・展示

  • 発掘調査は継続的に実施されている。役割分担は以下のとおり。
    • 藤原京:奈良文化財研究所が藤原京の調査
    • 藤原宮:奈良文化財研究所と奈良県立橿原考古学研究所や橿原市教育委員会
  • 朝堂院跡の東・南・西門跡、大極殿院の南門(閤門)に列柱の再現表示がある。
  • 奈良文化財研究所の藤原宮跡資料室と橿原市の藤原京資料室の2つの資料室がある。
藤原宮跡関連の資料室 位置図
藤原宮跡関連の資料室 位置図
奈良文化財研究所 藤原宮跡資料室
  • 奈良文化財研究所都城発掘調査部(飛鳥・藤原地区)が実施している調査研究の成果を紹介する施設(玄関ホールに発掘成果を速報展示)。
  • 展示室には、藤原京の造営過程、完成した都の様子、住民の暮らしぶりなどを遺物・模型・パネルを掲示。
  • 遺物の形式分類や遺構・遺跡の年代と決定する上で基準となる土器と瓦の代表的な資料を展示。
橿原市 藤原京資料室
  • 藤原京模型(1/1000)、出土品、解説パネルを展示。
  • 映像コーナーでは、当時の藤原京の再現CGや藤原京を造営した天武・持統天皇の功績を描いたアニメーションなどを視聴することができる。
  • 展望室があり、藤原宮跡朝堂院跡や天の香久山が一望できる。

 年間行事

花見頃

菜の花
(4月中~下旬)

  • 25,000㎡の花園に約250万本の菜の花
  • 醍醐池の北面エリア

黄花コスモス
(7月下旬~8月上旬)

  • 醍醐池の西面と朝堂院跡の東面エリア

花蓮
(7月下旬~8月上旬)

  • 朝堂院跡の東面エリア

コスモス
(10月上~下旬)

  • 30,000㎡に約300万本8種類のコスモス
  • 朝堂院跡の周辺エリア

 関連リンク

 案内

住所

  • 橿原市醍醐町

交通

  • 畝傍駅 ~ 徒歩30分
  • 畝傍御陵前駅 ~ 徒歩30分
  • 耳成駅 ~ 徒歩30分

見学

  • 時間 自由
  • 料金 無料