纒向遺跡

弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡。邪馬台国の候補地

国指定史跡

 所在地

  • 三輪山の麓から大和川にかけて、北は鳥田川、南は巻向川に挟まれた扇状地上に展開し、東西2km、南北1.5kmの範囲に及ぶ。
  • 奈良盆地の東南にあり、三輪山の麓から西になだらかな平野が広がり、農地の間に住宅とともに古墳が点在する。
纒向遺跡 位置図
纒向遺跡 位置図
纒向遺跡 全景
纒向遺跡 全景

 発掘調査

  • 昭和12年(1937)、土井実によって『大和志』に「太田遺跡」として紹介されたのが最初。
  • 以下のもので要約された程度で発掘調査は実施されていなかった。
    • 松本俊吉の『大三輪町史』(昭和34年(1959))
    • 小島俊次の『奈良県の考古学』(昭和40年(1965))
  • 昭和46年(1971)に調査が始まる。
  • 昭和54年(1977)の第21次調査まで、調査の主体は県立橿原考古学研究所。主な調査成果は次のとおり。
    1. 纒向石塚古墳の範囲確認調査
    2. 遺跡の広がりを具体的に把握
    3. 辻地区における遺構(居館域の調査の契機となった特殊建物)の検出
  • それ以降は、現在に至るまで、桜井市教育委員会が中心。
  • 昭和から平成に時代が変わると、調査だけでなく、遺跡の保存やその価値を見極めることを目的とした学術調査が本格的に開始される。
纒向遺跡の旧地形と墳墓・遺構の分布
纒向遺跡の旧地形と墳墓・遺構の分布
(引用:纒向遺跡発掘調査概要報告書(2013.05.13) 桜井市纒向学研究センター編の図を改編)
第1期(第1~38次)
発見から歴史的位置づけ
次数 時期 内容
1~6 昭和46年(1971)
  • 炭坑離職者の雇用促進のためのアパート建設計画に伴う調査開始
  • 調査地は辻地区
  • 6~7世紀の川の跡(纒向大溝)2本を検出
昭和47年(1972)
  • 3~4世紀の川跡と土抗群を検出
    ⇒ 辻河道(埋没河川)の南岸から21基の祭祀土抗を検出。特殊埴輪片や銅鐸の飾耳が出土
    ⇒ 楯築遺跡や都月坂遺跡(岡山県)でも出土
    ⇒ 初期ヤマト王権と関係があるとして注目される。
20 昭和53年(1978)
  • 辻地区で掘立柱建物と柱列からなる建物群を検出。
    ⇒ 居館域と考えられる。
36 昭和58年(1983)
  • 東田地区で検出された溝の上層から孤文石(こもんせき)が出土。
第2期(第38~54次:昭和)
資料の蓄積と研究の模索
次数 時期 内容
42 昭和60年(1985)
  • 坂田地区の落ち込みの中から多くの土器片・埴輪片が出土。
47 昭和61年(1986)
  • メクリ1号墳を検出。
    ⇒ 全長28m、後円部径19.5m、前方部長9.5m:纒向型前方後円墳
    ⇒ 埴輪や葺石なし、埋設施設は未確認
    ⇒ 周濠は幅4mで多数の土器が出土
    ⇒ 庄内3式期~布留0式期の築造
50 昭和62年(1987)
  • 巻野内家ツラ地区で導水施設を検出。家ツラ地区で導水施設へ水を供給する大溝の下部、布留0式期古相のV字溝を検出、そこから孤文板が出土。
51 昭和62年(1987)
  • 埋没古墳の周濠の一部と考えられる溝(幅8.5m、深さ60cm)を検出。
    ⇒ 布留0式期の土器、建築物の壁材と考えられる木製構造物が倒壊したままぼ状態で出土。
第2期(第55~145次:平成)
資料の蓄積と研究の模索
次数 時期 内容
59 平成3年(1991)
  • 北飛塚地区で庄内3式期に構築された住居跡(一辺5mの方形の竪穴)を検出。
61 平成3年(1991)
  • 李田地区の庄内3式期のV字溝の埋土よりベニバナ花粉を検出。
    ⇒ 国内最古の事例。
    ⇒ 溝に流された染織用の染料の廃液に含まれていたと考えられている。
65 平成3年(1991)
  • 尾崎花地区で溝(幅約4.8m、深さ約1.7m)を検出、そこから巾着状絹製品が出土。
80 平成6年(1994)
  • 尾崎花地区で区画溝とそれに伴う柱列を検出。
90 平成8年(1996)
  • 家ツラ地区のV字溝から韓式系土器が出土。
109 平成10年(1998)
  • 箸墓古墳後円部裾から木製輪鐙が出土。
112 平成11年(1999)
  • 箸中ビハクビ古墳を検出。
    ⇒ 地表には痕跡なし。
    ⇒ 直径20mの円墳or前方後円墳
    ⇒ 墳丘の下層から布留0式期の竪穴式住居跡を1棟検出。
121 平成12年(2000)
  • 箸中イヅカ古墳を検出。
    ⇒ 墳丘はすでに平削、馬蹄形周濠を持つ前方後円墳と推定。
    ⇒ 全長100m超、後円部径は45~50mと推定。
第3期(第146次以降)
保存・活用に向けて本格的な調査・研究
次数 時期 内容
149 平成19年(2007)
  • メクリ地区の庄内1式期の土坑から朱塗りの盾や鎌柄などの多数の遺物と木製仮面が出土。
162 平成21年(2009)
  • 建物Bの東側から新たな建物となる可能性がある柱列を確認。
166 平成21年(2009)
  • 辻地区で検出された建物群A~Dの4棟が東西に全軸を揃えて一直線に並んでいることや建物Dの北辺に立つと南方に箸墓古墳の後円部を見通すことができることが判明。
168 平成22年(2010)
  • 辻地区で銅鐸片が出土。
170 平成23年(2011)
  • 建物E(南北9m以上の規模を持つ大型建物)の遺構を確認。
  • 布留0式期を含めてそれ以降と新しい時期のものであることが判明。
173 平成23年(2011)
  • 居館域の南半部の遺構の範囲確認。
176 平成24年(2012)
  • 第166・168・173次調査で検出していた布留2式期の溝が土堤を介して西に屈曲し、微高地を「コ」の字に囲む一辺50mを超える区画溝となることが判明。
180 平成25年(2013)
  • 建物B・C・Dと同軸同角度の小規模な建物(建物F)を検出。
183 平成26年(2014)
  • 庄内~布留式期の多くの遺構を検出。

 歴史

時期 内容
180年代後半 突如出現。
4世紀中頃
(350年半ば)
布留1式の終末とともに突然消滅。 自然集落ではなく、人工的な集落(都市)であったと推定されている。理由は以下のとおり。

  1. 遠隔地を含む外来系土器が多く(全体の15~30%)出土していること
  2. 調査地点ごとに一般農村では考えられない奇妙な構築物や文物が数多く出土していること
古墳時代
前期後半以降中期まで
  • 大字箸中のビハクビ古墳やイヅカ古墳
  • 辻地区には一辺が50m超の布留2式期の方形区画溝を検出
古墳時代
中期後半以降
石塚東古墳や勝山東古墳など中小の方墳、円墳などが急増
古代
  • 文献上では城上郡に属し、条理では十七条~二十条、六~八里付近に位置し、小字名が遺称として残る。
  • 10世紀の『古今和歌集』や『延喜式』以降、「マキムク」の地名はほぼ姿を消し、近代の纒向村の成立まで消滅。
中世
  • 纒向地域における荘園の拡充
  • 水利を通じて人々の団結や抗争を行っていた。
近世
  • 中世に成立した集落を母体とする太田、辻、草川、初利、備後、穴師、大豆越、東田、箸中に近世村が存在した。
  • 芝村藩、柳本藩、津藩、天領が錯綜し、一体の支配を受けていたわけではない。
近代
  • 明治時代に近世村が統合され、近代纒向村が成立。
  • 戦後、纒向村は三輪町、織田村と統合して大三輪町となり、その後、桜井市と合併。

纒向編年 (引用:遺跡に学ぶ 051『邪馬台国の候補地 纒向遺跡』新泉社)

 概要

  • 弥生時代集落や同時代の集落遺跡とは一線を画するものである。
  • 近年では、邪馬台国近畿説の有力候補地として注目される。
  • 古墳時代の幕開けを告げる遺跡
  • 「新たに編成された王権の政治的意図によって建設された日本最初の都市」あるいは「初期ヤマト王権最初の都宮」と位置付けられる。
構成

(1)王宮・居住区

箸中居住区

  • 遺跡内の最南微高地に位置。
  • 遺跡存続期間の後半期になって集落が展開する区域と推定。

太田居住区

  • 遺跡内ほぼ中央に位置する太田微高地上に展開。
  • 面積は最大。
  • 太田地区から西域にかけて、庄内式期から布留式期にかけての遺構が密に検出されていることから中心的な居住域と推定。

太田北居住区

  • 遺構の密度が高く、多くの重要遺構を確認している地区。
  • 面積は最小。
  • 第Ⅰ・Ⅱ期纒向遺跡初期の王宮区と推定。
  • 王宮区西側に王宮に付属する祭祀エリアを想定。

巻野内居住区

  • 東半地域から布留0式期以降の特殊な遺構が数多く発見されているが、庄内式期に遡る遺構が極めて希薄。
  • 太田北微高地に推定されている王宮が布留式期になって移転した、纒向遺跡後半期の王宮区と推定。

草川居住区

  • 遺跡内最北に位置。
  • ほとんどが未調査。
  • 西端で数回調査実績があるが、顕著な遺構は発見されず、より東方に中心部があると推定。

(2)王墓区

  • 集落の西辺から南辺にかけて設定。
  • 王墓の分布状況は初期の第Ⅰ・Ⅱ期王宮区と目される遺構群が存在する太田北微高地の西部に集中。
  • 王宮区と王墓区の状況から太田北微高地が庄内式期の纒向遺跡の中枢区。
  • 太田北微高地が手狭になったことや巻野内微高地へと王宮区が移動したことなどに伴い、王墓群が西方や南方に拡大。
  • ホノケ山古墳周辺、箸中居住区から太田居住区の東側にかけて円・方墳を中心とする古墳群など纒向遺跡内に小規模古墳が40基余りが確認されているが、その多くの実態は不明。
纒向遺跡の構成
纒向遺跡の構成
特徴

(1)大規模な集落

  • 前段階の弥生時代の拠点的な集落をはるかに上回る極めて大きな規模を誇り、同時期の集落で同等の規模を持つものは皆無

(2)前期古墳の動向と次期が一致する集落

  • 弥生時代には過疎地域であったところに3世紀初めに突如として大集落が形成され、遺跡の出現・繁栄や消長が周辺の前期古墳の動向と時期が一致している。

(3)発生期の前方後円墳群の存在

  • 本来の近畿の墓の系譜にない墓制である前方後円墳や纒向型前方後円墳と呼ばれる共通の企画性を持った発生期の前方後円墳が存在。
  • 後の古墳祭祀に続く主要な要素を既に完成されていたと考えられる。

(4)農業を営んでいない可能性

  • 農具である鍬の出土量が極めて少ない。
  • 土木工事用の鋤などは多く出土。
  • 未だ水田・畑跡が確認されていない。

(5)吉備地域との直接的な関係

  • 吉備地域をルーツとする弧帯文様を持つ特殊器台・弧文板・弧文石板などの出土あり。
  • 弧帯文様を持つものは、吉備地方を中心に葬送儀礼に伴って発展

(6)広範囲な地域から運び込まれた土器

  • 他地域から運び込まれた土器が出土土器全体の約15~30%を占める。
  • その範囲は九州から関東に至る広範囲な地域

(7)交通の要所と「大市」の存在

  • 各地域への交通の要所に位置。
  • 搬入土器の存在と合わせて付近に市場の機能を有する「大市」の存在を推定。

(8)辻地区の特殊な大型建物群の存在

  • 辻地区において、ほぼ真北の方位に則り明確な設計と規格性に基づいて構築され、柵をめぐらせた特殊な大型堀立柱建物群の存在を確認。
  • この建物群の一つである建物Dは3世紀中頃までの建物遺構としては国内最大の床面積を有し、この時期の首長居館と推定。

(9)首長層の墓制

  • 太田メクリ地区において、一般的な居住域から方形周溝墓・木棺墓・土器棺墓などとともに庄内式期の前方後方墳であるメクリ1号墳の存在が確認。
  • 遺跡内での首長層の墓制や立地に明確な多様性や階層性が存在する。

(10)高床式や平地式の建物

  • 最盛期には竪穴式住居ではなく、高床式や平地式の建物で居住域が構成されていた可能性がある。

(11)朝鮮半島や大陸系の遺物

  • 韓式系土器の出土やバジル・ベニバナ花粉、漢式三角鏃を模倣したと考えられる木製鏃、木製輪鎧など朝鮮半島や大陸系の文物を数多く採り入れていたことが判明してる。

(12)高度な技術者集団

  • 複数の地点にて、鍛冶工房や木製品加工所などの存在を確認。
  • ベニバナを用いた染織が行われていた可能性がある。

 遺構

辻地区の建物群
Sites of Residence in Tsuji Area
概要
  • 3世紀前半~中頃にかけての居館の一部とみられる3棟の建物群。
  • 軸線や方位を揃えて建てられた国内最古の事例。
  • ヤマト王権の王宮の構造を解明するものとして注目されている。
纒向遺跡 居館域の全景
居館域の全景 (現地案内板より抜粋)


居館域の位置図 (現地案内板より抜粋)
調査履歴
  • 第20次調査の建物や柱列の遺構検出を手掛かりに、継続した調査を実施している。
  • 平成20年(2008)の第162次から居館域の調査を本格化。
  • 平成21年(2009)11月14・15日の第166次調査の現地説明会では、『女王・卑弥呼の王宮か』と大きな注目を受けた。
調査次数 調査目的 建物A 建物B 建物C 建物D 建物E 建物F 柱列 大型土抗 区画溝 石貼り溝
20 駐車場造成                  
21 資材置場造成                    
162 範囲確認                
166 範囲確認          
168 範囲確認            
169 住宅建築                    
170 範囲確認                
173 範囲確認                  
175 住宅建築                    
176 範囲確認                
180 範囲確認                  
182 範囲確認                    
183 範囲確認                  
復元イメージ
纒向遺跡 居館域の復元イメージ 居館域の復元イメージ (引用:纒向デジタルミュージアム)
建物B
纒向遺跡 辻地区の建物群(建物B)
建物B(西から)
[現地案内板より]

  • 西・南・北の三方を柱列によって囲まれた2間(4.8m)×3間(5.2m)、床面積約2.5㎡の規模を持った建物遺構。
  • 建物Bと柱列との間は1.5~1.7mと非常に狭いことから高床式の建物の可能性が考えられている。
  • 出入りは東側から行われたものと推定。
纒向遺跡 辻地区の建物群(建物B)復元イメージ
復元イメージ(建物B)
(引用:纒向遺跡発掘調査概要報告書(2013.05.13)
建物C
纒向遺跡 辻地区の建物群(建物C)
建物C(北東から)
[現地案内板より]

  • 南面要部東西両柱穴が後世の遺構の掘削によって失われているので正確な規模は不明。
  • 南北の両妻部の中央からは建物に近接する形で棟持柱が検出されている。
  • 復元では2間(5.3m)✕3間(約8m)、床面積約42㎡の規模。
纒向遺跡 辻地区の建物群(建物C)復元イメージ
復元イメージ(建物C)
(引用:纒向遺跡発掘調査概要報告書(2013.05.13)
建物D
纒向遺跡 辻地区の建物群(建物D)
建物D(南から)
[現地案内板より]

  • 西側は4世紀後半の溝によって削平され、検出規模は2間(6.2m)以上×4間(19.2m)。
  • 本来は東西も4間の規模と推定され、南北長さ19.2m×東西長さ12.4m、床面積約238㎡の規模で復元される。
  • 当時としては国内最大規模の建物遺構。
纒向遺跡 辻地区の建物群(建物D)復元イメージ
復元イメージ(建物D)
(引用:纒向遺跡発掘調査概要報告書(2013.05.13)
建物E
纒向遺跡 辻地区の建物群(建物E)
建物E(北西から)
[現地案内板より]

  • 南北2間(9m)以上、東西1間以上の大型建物になると想定。
  • 建築時期は3世紀後半以降と推定。
  • 建物B~Dと建築時期や建物方位が異なる。
柱列
纒向遺跡 辻地区(柱列)
柱列の検出状況(西から)
(引用:纒向遺跡発掘調査概要報告書(2013.05.13)

  • 建物B~Dの建物群を取り囲む柵や塀のような構造と推定。
  • 途中、南北溝などの後世の遺構に大きく削平を受けている。
大型土坑
纒向遺跡 辻地区(大型土坑)
大型土抗(東から)
[現地案内板より]

  • 3世紀中頃の南北約4.3m、東西約2.2m、深さ約80cmの長楕円形の土坑。
  • 多量のモモの種の他、土器・木製品の壊されたものや動植物遺体などが出土。
    ⇒ 建物群の廃絶時の祭祀において道具類を破壊して、投棄したものと推定。
区画溝
纒向遺跡 辻地区(区画溝)
区画溝東辺の様子(北から)
(引用:纒向遺跡発掘調査概要報告書(2013.05.13)

  • 東辺にあたる南北溝部分と南辺にあたる東西溝部分、西辺にあたる南北溝部分で構成される。
  • 東辺は幅約8m、深さ約1m、長さ54m以上の規模。
  • 南・西辺は上部が後世の遺構により削平されていて、詳細は不明であるが、東辺に近い規模であったと推測される。
  • 多くの土器のほか、板材、柱材、梯子などの加工木が出土(布留2式期)。
纒向大溝
Makimuku-Omizo(big ditch)
纒向遺跡 纒向大溝
纒向大溝
(引用:「遺跡に学ぶ」051『邪馬台国の候補地 纒向遺跡』)

  • 南溝は箸墓古墳付近の巻向川から、北溝は旧穴師川からきて現在の纒向小学校のグランドの中で合流していることが確認できた。
  • 幅約5m、深さ約1.2mの大溝、確認されている長さは北溝約60m、南溝約140m。
  • 庄内0式期に掘削され、布留1式期(4世紀初め)に埋没している。
  • 南溝には護岸用の矢板が打ち込まれている。
  • 両溝の合流点には水量の調整が可能な井堰が設置されていた。
  • 灌漑用であるとともに、物資運搬用の水路と推定。
巻野内家ツラ地区の導水施設
Remains of water conveyance facility

導水施設
(引用:「遺跡に学ぶ」051『邪馬台国の候補地 纒向遺跡』)

  • 纒向遺跡北部の巻野内地区に碁盤目状の水路と建物群があり、
  • 中央に幅63cm、長さ190cmの大きな木製の槽を据え、北・南・東の三方から木樋を通して水を注ぎ、木樋から素掘溝へと排水している。
  • 水源地は東200mの大型土坑で、布留0式期新相(3世紀後半)頃の設置の可能性。
  • 下層のV字溝には木剣、木刀、孤文板などの祭祀用具があった。
  • この遺構群は、浄水を集めた祭祀の場と推定。
  • 布留1式期(4世紀初め)に廃絶している。
北飛塚地区の住居跡
Sites of dwelling in Kitatobizuka Area

  • 南溝は箸墓古墳付近の巻向川から、北溝は旧穴師川からきて現在の纒向小学校のグランドの中で合流していることが確認できた。
  • 幅約5m、深さ約1.2mの大溝、確認されている長さは北溝約60m、南溝約140m。
  • 庄内0式期に掘削され、布留1式期(4世紀初め)に埋没している。
  • 南溝には護岸用の矢板が打ち込まれている。
  • 両溝の合流点には水量の調整が可能な井堰が設置されていた。
  • 灌漑用であるとともに、物資運搬用の水路と推定。
辻地区の祭祀土坑群
Group of rituals earthen pit in Tsuji Area

  • 辻河道(埋没河川)の南岸から検出された21基の祭祀土坑
  • 内部から多くの土器や木製品が出土
  • 最も遺物が豊富だったのが辻土坑4(第7次調査)
    ⇒ 出土祭具は『延喜式』新嘗祭の条の器材と共通点
尾崎花地区の区画溝
Partitioning groove in Ozakihana Area

  • 布留0式期~2式期(3世紀後半~4世紀中頃)の遺構
  • 幅、深さともに約2m規模
  • 溝の外側には土塁のような盛土遺構がある
    ⇒ 上面の塀(or垣)となる柱穴が約1.6m間隔で検出
    ⇒ 居館など役割を持った施設と一般集落を区画
  • 尾崎花地区からは鍛冶関連や木製品加工関連の遺構が出土
    ⇒ 区画の内側には工房などの存在を想定

 遺物

メクリ地区の木製仮面
Wooden Mask in Mekuri Area

木製仮面
(引用:遺跡に学ぶ 051『邪馬台国の候補地 纒向遺跡』新泉社)

  • 庄内1式期(3世紀前半)の土坑から出土。
  • 長さ約26cm、幅21.6cm。
  • アカガシ亜属製の広鍬を転用して作製されたもの。
  • 口は鍬の柄孔を利用し、両目部分は新たに穿孔し、その上に眉毛を線刻によって表現、高く削り残した鼻には鼻孔もある。
  • 木製の仮面としては国内最古。
辻河道出土の埴輪片・銅鐸片
Debris of Clay image and Bronze-bell

埴輪片
(引用:遺跡に学ぶ 051『邪馬台国の候補地 纒向遺跡』新泉社)

  • 都月型円筒埴輪と称されているものの破片
  • 吉備の特殊器台から派生した最古の埴輪とされる。
  • 胎土は茶褐色で表面は赤彩。

銅鐸片
(引用:遺跡に学ぶ 051『邪馬台国の候補地 纒向遺跡』新泉社)

  • 銅鐸の飾耳の破片
  • 円形部の径が4.2cm
  • 突線鈕式銅鐸の破片で復元すると高さ1m程度の比較的大型の銅鐸になると推定。
東田地区の孤文石
Komonseki in Higaida Area

孤文石
(引用:遺跡に学ぶ 051『邪馬台国の候補地 纒向遺跡』新泉社)

  • 東田(ひがいだ)地区で検出された溝の上層から出土。
  • 庄内3式期から布留0式期(3世紀中頃~後半)のものと推定。
  • 重さ24.25g 粘板岩製と推定。
  • 施文が残る面は長辺4.7cm、短辺2.8cm
    ⇒ 彫刻が施されていない部分が残る。
    ⇒ 製作途中で廃棄されたものと推定。
李田地区のベニバナ花粉
Safflower Pollen in Sumoda Area

ベニバナ花粉
(引用:遺跡に学ぶ 051『邪馬台国の候補地 纒向遺跡』新泉社)

  • 庄内3式期(3世紀中頃)の溝の埋土から検出。
  • 国内では最古の事例。
  • ベニバナは通常、染料や漢方薬、紅に使われるが、花粉量の多さから溝に流された染織用の染料の廃液に含まれていたと考えられている。
家ツラ地区の孤文板と韓式系土器
Komonban and Earthenware(Kanshiki)

孤文板

韓式系土器
(引用:遺跡に学ぶ 051『邪馬台国の候補地 纒向遺跡』新泉社)

  • 導水施設へ水を供給する大溝の下部にある布留0式期古相(3世紀後半)のV字溝の下層溝から出土。
  • いずれも導水施設が構築される以前の祭祀に伴う遺物と推定。
  • 孤文板は、欠損していて本来の形状は不明であるが、ホウの木に彫刻し、黒漆で仕上げた優品。
  • 韓式系土器は、格子目のタタキを持つ(下写真右)とミガキによって光沢を持つ(下写真左)の2種。
尾崎花地区の巾着状絹製品
Drawstring purse made in silk fabric

  • 幅約4.8m、深さ約1.7mの溝から出土。
  • 布留0式期新相(3世紀後半)から布留1式期古相(4世紀初め)のものと考えられる。
  • 天蚕によって作られた平織り絹布で何かを包んだ後、捻りの浅い植物質の紐(麻類)で口を結ぶ。
  • 高さ約3.4cm、厚み約2.4cm。
  • 巾着は漆によって固められ、中に空洞があることは解ったが、内容物は不明。

 保存・展示

  • 発掘調査は継続的に実施され、187次を超えている(平成28年3月時点)が、遺跡全体の面積の2%にも届いていない。
    ⇒ さらなる調査の推進と詳細な内容構造の解明はこれからの課題として残っている。
  • 国の史跡指定を受けているのが纒向遺跡としては辻地区と太田地区、纒向古墳群は纒向石塚古墳とホケノ山古墳のみ。
    ⇒ 遺跡の特徴を考慮すると他のエリアも史跡指定を受けることができるように活動を進める。
  • しかし、史跡指定を受けているエリアですら遺跡見学の拠点となる公園広場や施設、散歩道、説明板や案内板といったサインの設置といった周辺環境の整備は進んでいない。
    ⇒ 交流館(太田エリアで計画)をセンターエリアに据え、周辺の古墳や史跡をサテライトとして諸施設を配置。
    ⇒ 史跡活用する計画を桜井市が公表(平成28年3月31日付)している。
    ⇒ センターエリアに位置する交流館(ガイダンス施設)のオープンは平成31年度末を想定した計画となっている。

 関連リンク

 案内

住所

  • 桜井市箸中ほか

交通

  • 巻向駅 ~ 徒歩15分

見学

  • 時間 自由
  • 料金 無料